昨日は、すこし心を重くする出来事が2つ重なりました。
だからといってはなんだけど、今日のブログは写真ナシです(>_<)

ねじれた感情表現と自分

嫌なことの一つは、社内人事。
部下に大変慕われている中間管理職の方が「リストラ勧告」とも取れる降格人事の対象になりました。 明日はわが身、という雰囲気が社内に広がっていることと慕っているその人が立たされている立場を思う苦しさが相まって、心が重くなりました。

嫌なことの二つ目は、取引先での子供じみた行動。

取引先では、何人もの人が出入りして仕事をしていますが、1日あたりの滞在時間は私が一番長いです。私の他にもう一人、毎日それなりの時間滞在する人がいます。

このもう一人の人を仮に山本さん、とします。
この山本さんは、「周囲の人に笑っていて欲しい」が信条の温厚な人で、取引先の担当者からも好かれていますが、この担当者、かなりの曲者。曲者の文字の通り、ちょっと曲がった人なんです。なにが曲がっているかというと、感情表現。

感情表現が曲がっている、と言われてよく思い浮かぶのは「好きな子を苛める」です。子供の頃に、はずかしさから間逆の行動を取ってしまうというのはよくあることで、自分もそうだったという人も多いはず。少なくとも私はそうでした。

そんな幼少時代を経験した人も、曲がった感情表現や間逆の行動では自分の気持ちが伝わらないことを経験し、やがて、素直な行動を取るようになる気がします。
感情を表現したいときというのは、自分の感情を相手に理解されたいという目的があるので、相手が自分の感情を理解できるような表現を選ぶのは当たり前のことだからです。

ところがところが、大人になっても間逆の行動を取ってしまう人がいるんですよね。

前述の担当者さんが、私の同業者山本さんとコミュニケーションを図ろうとするときがその典型です。
会話の糸口は、まず「ツッコミ」から。
次は「そうでしょうか?」「知りませんが?」などのそっけないそぶり。
そして「嫌です」「できません」などの間逆な行動。

山本さんもそのことには気づいていて、いつだったか 「ああいう言動を取ってしまうのは、悲しいことだよね」 と言っていました。もっと素直に感情表現すれば、コミュニケーションがはかどって、楽しい人付き合いが自ずと増えてくる、という考えです。私も同感です。

で、昨日の出来事なんですが、山本さんが担当者に押印してもらった商品受領書を置き忘れて帰ってしまい、さらに商品受領書の日付が間違っていたんです。
大したことのないミスですが、担当者にとっては、ツッコミどころ満載の嬉しい出来事だった様子。山本さんとコミュニケートできる材料がいっぱいだからです。

「ビリビリッ ビリビリッ」
突然背後から紙を破く音がして、ドキッとして振り向いたら、担当者がなんと、山本さんが置き忘れた商品受領書を破いています。そして、山本さんの作業ですくに、破かれた紙を置きました。

「・・・・・」

これで、私の心が???と嫌な気持ちで重くなりました。

「フツー、こんなミスで書類を破くか!?」 破かないでしょう。

「破いた紙切れをこれ見よがしにデスクに置かれて楽しいか?」
楽しくないでしょう。はっきり言って、かなり悲しい気持ちになります。
相手の悪意の程度にかかわらず、破かれた紙の山を置かれるという事実は、それだけで人にショックを与えることだからです。

ところがこの担当者は、そんな人の気持ちがわからない。
わかっているけれど、自分に悪意がなく、好意しかないから許されて受け入れられると思っているのでしょうか。
山本さんは受け入れたフリをするでしょうが、そこに良い感情がない以上、担当者が望むようなコミュニケーションはないはずです。それでもいいんでしょうか?

いいんでしょうね、本人は。

結局は、山本さんや私が嫌な気持ちをもって毎日その場に行かなければならなくなる。それだけ。

自分も気をつけなければ、と改めて思う

この手の人間関係のうっとおしさは、世の中にいっぱいあります。
だけど、いっぱいあるからと言ってさらりと流せない私がいます。

自分のために、まっすぐな感情表現を身につける努力をする。
実は曲者の一人、Rittyの毎日の課題。
担当者の行為は、自分を写す鏡だったのかもしれない。
だから、まずは自分のことから気をつけていこうと思います。

「情けは人のためならず」と「鏡の法則」